昭和53年7月、梶原氏からすごい孔雀菊花石が出たのですぐにこいと電話がありました。次の日、仕事を終えると村上氏の運転でくらい夜道を走り、根尾谷にかけつけました。真夜中に梶原氏の家に着いて作業場の電気をつけた時、山と積まれた孔雀菊花石が輝きました。その時、余りの美しさに天が降りたと感動したのです。そしてこの時の母岩を「天降」と名付けたのです。
この孔雀菊花石は赤倉山のナカシマというところから産出しました。深い坑道の奥に300貫もある大きな母岩が山石と固く結合していて、坑道から取り出すことが出来なかったため、小さく割って取り出されたのです。その中で1番大きな母岩がこの「天原」です。
この母岩の生成は石灰質の流れが何度も流れ込んで出来ています。薄い石灰質の層が流れ込んで冷えると、またその上から流れ込んで冷えたのです。薄い層になった孔雀の斑文が流れた重なりをみせています。そして、その上に純白の花を作りました。坑道掘りの最後に唯一無二の孔雀菊花石が産出したのです。
花出しはほとんど削ることなく、皮目の膨らんだところを削って花を出しました。周囲は平面的に割れたところを磨きましたが、磨くと層の重なりと孔雀の色彩がハッキリと表れました。母岩の資質が良いので、磨くことで色彩と花と成り立ちがハッキリと現れたのです。そして、V字にくい込むような割れた所を残しました。この残した割れ肌と磨き肌の境目をスパッと磨いたので石に力強さがあります。
赤倉山の奥地、上大須に大須ダムの工事が始まりました。この工事に伴って仮設道路が出来たことにより、昭和54年からは赤倉山の採石が露天掘りになったのです。麓から頂上に索動をかけて重機を運びあげ、重機で菊花石層の周りの岩盤を取り去り、採石するのです。
それまでの狭い坑道から小さく割って産出していた菊花石が、大きなまま沢山取り出されました。そして、大きなまま索動で山から降ろしました。第二の石ブームが静かに始まったのです。この頃から春と秋に愛好家とともに山にあがり、変化する赤倉山を記録しました。
この時、赤倉山の山頂付近を川のように流れる樋(層)を見て、菊花石はマグマが川のように流れて出来たと分かったのです。それ以降、母岩の生成を川の流れに合わせて考えるようになりました。
薄く平面的な母岩は早瀬のように、早く軽快に流れて出来た母岩として、厚く平面的な母岩は悠然と流れて出来た母岩として、球状になって出来た母岩は淵で渦を巻いて出来た母岩としてです。そして、火山灰土の中に入る花は、火山灰の中を伏流水のように流れた母岩として考えたのです。
マグマの流れが母岩の流れをつくり、花の構図が完璧に出来ていることがわかったのです。このとき、大量に産出する菊花石の自然性と貴重さを理解出来たので、母岩特徴を見せる母岩を買い求めたのです。
火山灰土の上をマグマ(樋)が薄く流れて出来た母岩です。マグマが火山灰土と結合したので、露天掘りにより大きく取り出されました。この母岩の幅がマグマの流れた横幅になります。そして、上下は樋が割れています。もし上下が割れていなければ、母岩の長さは3メートル以上あったと思われます。花は皮目の下に並んでいるので、皮目を取り去るだけで一番いい花の並びが出ます。両端の皮目や割れた面、後ろに付いた山石などを残しています。菊花石は花と色彩と自然を見せる生成痕が素晴らしいのです。
沢山の母岩が取り出されて根尾谷とその周辺のお店に母岩が溢れていました。その中で私の感性を刺激する小さな玉樋母岩を求めました。小さな玉樋母岩は小花が咲いています。そして、その花の構図は母岩の形に沿って花が巻き込んで出来ています。形と花の並びが一体化しているのです。
最初の頃、母岩の外から削って花を出していました。しかし、外から削ると最初に出した花を残しながら花を出して行くので、どうしても石の形が歪になってしまいます。それで、厚みのある玉樋母岩は母岩の真ん中から切断しました。菊花石の切断は、切断する位置と角度によって様々な花の構図が出るのです。
この母岩は梶原氏が取り残してくれた玉樋母岩の総花花序。母岩が巻き込んで出来ています。そして、母岩の一部が割れていて、紅い瑪瑙花の押し合いが見えています。どこを削っても割っても花なのです。
それは生成時に軟らかい母岩の中で、花の花弁が長く伸びて母岩を構成したからです。一番花で満たす石が、一番花出しに悩んでしまい、作品にならないのです。
薄い扁平になった玉樋母岩です。扁平になっているので、花も花序も扁平になって巻き込んでいます。その巻き込む層に沿って、花の層が重なりあって入っています。花序が薄いので僅かな段をつけると巻き込む層が表れます。
菊花石の母岩は母岩と花と花序が完璧に揃って出来ています。小さな母岩はそれを見いだし易いのです。薄い母岩の花出しは、母岩の真ん中から少しずつ花を見ながら広げていきます。そうすることで母岩全体に流れる花の並びが出せるのです。
サバ菊が一つは欲しかったのですが、欲しいサバ菊がありませんでした。このサバ菊は根尾村高尾の小沢銘石店から求めたサバ菊です。店主の故小沢皓氏は岐阜で石の市が立つと、市でセリ人として市を仕切っていました。この頃は大量の母岩が産出するので、市は全国各地の業者で活況をせいしていたといいます。
市で値の合わない菊花石や珍しい菊花石があれば持ち帰り、お店に置いていました。お店を訪ねると、お店に沢山の牙菊があったのです。その中に皮目が反り返り、皮目を穿った中に花が出た牙菊がありました。この牙菊に一目惚れして求めたのです。
氏曰わく、昨日も今日も名古屋のセミプロ連中がきてこの牙菊を売れというので、これは予約でだめだと言って愛好家が来るのを待ってくれていたのです。