菊花石物語

菊花石の産地 根尾谷

根尾谷の菊花石

樽見鉄道 日当付近

根尾谷は大垣駅から樽見鉄道で約1時間トンネルと鉄橋が続く山あいにあります。この狭い谷合いにある根尾谷断層と菊花石が国の特別天然記念物に指定されています。菊花石は昭和16年、初鹿谷の16万平方メートルが地域指定されました。根尾谷断層は明治24年に内陸部直下形地震としては最大級のM8の濃尾地震が根尾谷を震源地として起こったのです。

この地震で水鳥地区に上下段差6メートルの断層が出来たのです。根尾谷断層は昭和2年に国の天然記念物に指定され、更に昭和27年に菊花石とともに特別天然記念物に指定されました。現在、日本の地質に指定された特別天然記念物の一割が根尾谷にあります。

根尾谷周辺
地震直後の根尾谷断層

菊花石は石ブームの頃から愛好者の求めに応じて、40年に渡り赤倉山から採石されたのですが、平成13年には赤倉山の産出も少なくなり、台風で大きな被害を受けたのを機に赤倉山の採石が一旦終わってしまったのです。膨大な母岩が取り出された赤倉山に何も遺さず、菊花石が珍しい石として散逸して終わるのは余りにも赤倉山が可哀想です。菊花石は自然を見いだしてこそ価値があり、日本人の感性を高めてくれると思うのです。

舟伏山 特別天然記念物の指定地
赤倉山 菊花石の産出地
根尾川 水も風も石もみんな清冽です

赤倉山からの菊花石の産出がなくとも、毎年根尾谷を訪ねています。それは、根尾谷の風景や車窓風景がどこよりも美しく心を癒やしてくれるからです。そして、地元の愛好者や根尾谷近辺でお店を営む愛好者との交流が楽しみなのです。大阪駅から在来線で伊吹山を見ながら大垣に出て、樽見線に乗り換えて根尾谷を訪ねる日帰り旅行です。それは大垣駅から樽見線で濃尾平野の柿畑を走り、本巣の石灰岩の山を抜けると風景が一変して魔法の国に入るのです。

谷汲参道にある神山さんのお店
柿と菊花石を扱っている誠実なお店です
薄墨桜の麓で桜茶屋を営む宮脇氏
宮脇氏が赤倉山の谷で見つけた菊花石

なぜ魔法の国かそれは一昔前までは奥美濃の地質は地学に疑問を投げかけていました。いくら研究しても結論が出せないので、ここを特異地(魔法の地)として放っておかれたのです。それは地質が逆転していたのです。中生代ジュラ紀の地質の上に古生代ペルム紀の地質があったのです。そして舟伏山、赤倉山、金生山、魚金山、伊吹山などの頂上付近に石灰岩が厚い層となってあり、その石灰岩の中に古生代ペルム紀のフズリナや海百合の化石が入っているのです。この化石がはっきりとした時間 を示していました。

赤倉山の石灰岩地帯

周辺との地質の年代が、ここだけが突然数千万年もかけ離れています。どこからきたのか、億年の時間を飛び越えてきた魔法のような石灰岩を語る事はタブーだったので、今も学校教育で石灰岩を教えることはないのです。

1970年代になって、やっと日本の研究者により石灰岩はここで出来たのではなく遠い赤道付近の海で海底火山が海山を作り出し、海山の回りに珊瑚礁を発達させながらプレート移動により運ばれてきた事が分かり出してきたのです。それは、天動説から地動説に変わる地学の激変だったので、プレート移動説と従来の説との激論が長い間繰り広げられたのです。その結果、地学は疎まれて教育課程からはずされたのです。

菊花石の樋 菊花石の層は幅広く流れている

約7千万年前、地球の活動期にマグマが石灰岩を溶かし込んで流れでたものです。その痕跡が川の流れのように流れ続いているので、採石業者はこれを見て「樋」と呼んでいます。この樋の流れの中でマグマに溶かされた石灰岩が様々な母岩を生成していたのです。それは何万もの多彩な花と母岩を自然が余りにも見事に作り出していたのです。それは自然感がないと理解ができなかったのです。

川合玉堂翁 丸山図 月明會 菊花石石譜

戦前から、愛好者が根尾谷に入り、川や谷で菊花石を探してきました。川の菊には川の砂礫が磨きあげて造り出した川ズレ菊の風雅な趣と菊花の珍しさが文人墨客に愛されてきたのです。川合玉堂画伯も根尾谷で菊花石を探した時の初鹿谷風景と思いを書き残しています。当時の愛好者は菊花の紋様石として静かに菊花石を楽しんでいたのですが、昭和36年頃から石ブームが始まりました。

月明會 菊花石石譜 昭和15年刊より
川ズレ菊ですが、当時から様々な花があることが知られていた。

石ブームの時、菊花石は特別天然記念物という肩書きで新聞や雑誌に大きく取り上げられて、石ブームの旗振りに使われました。本質が理解出来ないままに、菊花石はお金になると言うことで石ブームを煽ったのです。根尾谷は休日になると、何百人もの人が押しかけて河原は人で埋まったといいます。

過度に花を彫刻した菊花石や訳のわからない偽花石が現れました。そして、何も知らない人に程度の悪い石を販売したのです。今でも昔の偽花石が大手を振って販売されているのです。また困ったことに、そうした石が寄進され、お寺や神社の人目に付きやすい所に有り難く置いてあります。

石ブームの頃から赤倉山から採石が始まりましたが、当時は多くの母岩を小さく割って産出されました。そして、割れて花の出た面を磨いていました。花が沢山あるほうが高く売れると云うことで形はいびつにされてしまい、花と形に調和が取れていない菊花石が大量に造り出されたのです。自然と美がわからない人達が趣味としたので、貴重な母岩が潰された悲しみの時代です。

菊花石は母岩に合わせた花の構図があります

石のブーム以降も赤倉山からの採石はされていたのでが、ブームは様々な弊害をもたらしました。その一方で菊花石の自然を求めていた愛好者がいたのです。根尾谷の専門店は、観光客や素人の好みに合わせて花を沢山出した菊花石に仕上げていましたが、愛好者の美意識はさらに自然美をみせよ、構成美もみせよと要求したのです。

梶原氏の作業場

専門店は愛好者の要求に合わせて花を出していくうちに菊花石の自然性を理解して花を出すようになったのです。また、愛好者が自らグラインダーを握り、愛好作家として菊花石を削り出したのです。地元の梶原氏や石川氏は辺鄙な根尾谷まで足を運んでくれる愛好作家に対しては、珍しい原石があると取り置いてくれていました。

赤倉山露天掘り 昭和55年頃

時は流れ、この辺鄙な赤倉山の奥に昭和53年頃から奥美濃ダム工事が始まりました。それに伴い、仮設道路が整備されてトラックが入れるようになった昭和54年、赤倉山に索道がひかれて採石が露天掘りになったのです。多くの母岩が産出して根尾谷の専門店にはどこでも母岩が沢山積み上げられていました。岐阜では毎週どこかで交換会や市がたち、沢山の菊花石や原石が交換されました。第二の石ブームが始まったのです。

純白菊花石

第二の石ブームは静かに始まり、愛好者を喜ばせて静かに終わりました。菊花石の層を取り巻く岩盤は脆く崩れ易いので坑道掘りは幅一間余りで採掘したために、幅広く流れた母岩の取り残しが沢山出たのです。露天掘りは脆い山石をダイナマイトで崩し、重機で取り除いて採石したので原石が割れないまま沢山産出したのです。

そして大きな母岩を索道で降ろしました。沢山産出した原石の中に花と色彩の美しい母岩があったのです。紅い透花、純白菊、黄金菊花石、祝い菊、紅白の咲き分け、孔雀菊などの宝石の輝きを持った気品の高い菊花石が産出されました。それらは特別天然記念物の初鹿谷菊花石をはるかに凌駕した菊花石だったのです。

黄金菊花石
孔雀菊花石

平成元年に樽見鉄道が大垣から樽見まで全線が開通して根尾谷は便利になったのですが、皮肉にも露天掘りの菊花石の産出が激減したのです。この頃は一カ所のみで採石されており、僅かに産出する原石の質も悪くなり、膨大な残土処理に経費がかさみ、採石業者は赤字で採石したといいます。第二のブームは昭和で終わっていたのです。

昭和60年頃 赤倉山の砂防堤
平成6年 赤倉山の採石跡

赤倉山からの採石が少なくなり終わりが近ずく頃、菊花石を商っていた石川氏が亡くなり、相ついで梶原氏が亡くなりました。石川氏は全国各地の盆栽展や愛石展などで菊花石を展示販売していました。そして、各地の愛好者に名品を預けました。

梶原氏は愛好者に質の良い原石から先に分けたのです。良い原石は削ると花の構図が現れて来るのです。そうして多くの愛好者を育てたのです。梶原氏は根尾谷菊花石の貴重さを理解して扱ったので幸い名品は散逸することなく愛好家コレクションとして残りました。また、根尾村は薄墨桜の隣接地に根尾村郷土資料館(現在の桜資料館)を建設して菊花石の展示を始めました。

根尾村郷土資料館
資料館内部 現在
宮脇明道氏寄贈 玉樋母岩
資料館の捌菊