私が最初に求めた菊花石は偽花石でした。昭和47年、今宮十日恵比寿神社の露店の暗い灯りの下で机の上に石を並べていました。
その中でこの石がクッキリと花が出ていたので、私が探しているのはこれだと思い込んで求めたのです。持ち帰り家でよく見ると、芯も花弁もタガネで掘り込んでいました。私の菊花石は最低の石から始まったのです。
悪い花を叩いて花を造るのは、石に対して冒涜であり、欺瞞なのです。また良い花を叩いて造るのは、深く入ったノミ目の傷が花の自然を破壊して更に悪いのです。
初花を求めたのは、昭和49年当時、大阪の上六で世界名石を営む小西氏のお店で求めました。小西氏は電話の債権で財をなし、趣味が昂じて名石店を営んでいました。氏は良い石は家の家宝になり、末代まで楽しめると名石を販売していました。
深い緑の母岩に瑪瑙紅の取り合わせが魅力的でした。値段が高いので少しためらいましたが、持ってみると不思議と心が豊かになったのです。
石の雑誌で根尾に菊花石のお店があることを知り、昭和51年の春に仕事仲間の村上氏に車をお願いして根尾谷を訪ねました。根尾村に入る急な坂を下るとすぐに梶原銘石店がありました。
梶原銘石店には、仕上げた菊花石や原石が安く販売されていたので、これなら趣味として楽しめると思い、割れた菊花石を買い込み花出しを始めたのです。その最初の作品。色彩の地味な花と母岩が幸いして、色彩に目を奪われなく花出しが出来たのです。
51年の夏、よい母岩が出たとの連絡をうけて根尾谷を訪ねました。そして、大きな母岩を二つ求めました。
母岩の一つは、40キロもある花被りの母岩。母岩の特徴がわからずに花を削りすぎてしまいました。残りがこの玉樋の菊花石。削り込むと、花弁の先が抜けて紅い花弁が火炎のように乱れています。
この時、火炎の花が理解できずに悩みましたが、池の波紋が乱れるように、空が虹を映すように一瞬の動きと輝きが石にもあるのだと思ったのです。
昭和51年 赤倉山から産出した玉寄せ母岩。梶原氏がこれは珍しい母岩と勧めてくれたのですが、全体が皮目に覆われて玉菊の花弁が盛り上がり出ているのです。
始めて見た母岩の余りにも力強い造形に尻込みして出来ないと断りました。次の週に根尾谷を訪ねると、梶原氏が花のポイントを出していたので求めました。そして、花の肩の線を崩さずに仕上げたのです。
母岩の周囲は水蝕されてボロボロになっていたのですが、母岩は硬く、瑪瑙化していたので岩盤の中で残っていました。
梶原氏が初鹿谷の珍しい菊花石というので削ってみたのです。吹きかけ絞りの美しい花が黒い山石の中で咲いていたので見事な石に仕上がりました。
山石(火山灰)の中にマグマが入り込み、その中に母岩が出来て花開いたので、花が大きく自由に広がっています。
専門店では、母岩の皮目を少し削り、花を確認して母岩を販売していました。その中でチョコ紅の小さな母岩があれば求めました。
チョコ紅の母岩は石灰質を多く含むので、花のまとまりが良く石に暖かさがあります。そして、小さな母岩は小花が咲いていて流れる花序を持っているのです。花序を出せば小さな母岩が素敵な石になるのです。
夏の赤倉山は暑く、そして山にブヨが出るので、夏は採石をしないのです。それでも根尾に行くと何かがあるのが根尾谷の豊かさです。この母岩は西谷川で釣り人が見つけた珍しい菊花石です。
釣り人が梶原氏のお店に持ち込んだので分けてもらいました。グレーと白の縞になっています。皮目質のマグマが何度も流れ込んで層を作り、その層の上で糸菊の花が出来たのです。余りにも躍動的な菊花石です。
花弁に横縞が入る菊を虎菊といい強い力を感じます。虎菊になった花は大きな芯をしています。大きな芯は核が沢山集合して出来ています。
生成時、高温の母岩の中で石灰質の核が圧縮されて弾けると核と核が押し合って、割れたような芯を残すのです。そしてその力のリバウンドが縞をつくるのです。この花は伸びた花弁の先から再び弾けて花弁に縞を入れています。
赤倉山から花被りの母岩が割れて産出しました。割れた所からは花が綺麗に出ていました。それで、花の周囲を磨いて、あとはそのままにしています。割れて出た花は、人が出せない花の並びが出るのです。それを「神割り」といいます。
これは前の神割れの反対側。母岩の上を斜めにしています。花は綺麗に割れて出ていましたが、花の周囲が歪な三角に割れていました。
歪になった形の悪さは見ていて見飽きます。この花を生かすように硬い母岩を大きく削り取り仕上げた作品。魅惑的なピンクの花なので文鎮にしています。
大きな母岩の端が割れた小な欠片。小さな欠片でも、花出しの前に母岩の浮いた皮目を丁寧に取り去ります。脆い皮目を外すと、盛りあがる玉石の花弁が二つ出てきました。
花の先端を少しだけ削り込んで仕上げた菊花石で、小さくても堂々としています。岩中氏の蔵石となり、氏はこの菊に値千金として「千貫」の銘を付けました。
山の状況を知りたくて梶原氏に山の案内をお願いしておきました。昭和53年の春、住吉屋旅館に泊まり、朝早く梶原氏の案内で赤倉山に登ったのです。当時、少しでも雨が降ると危険で松田から先は通行止めになるという難所でした。
赤倉山の採石は坑道掘りをされていて、脆い岩盤に入る樋のまわりを削岩機で穴をあけ、発破をかけて菊花石を採石していました。それは大変な作業で、山の地質状態や採石作業を知ると菊花石の大切さが理解出来たのです。