江戸時代、近江国坂本の奇石収集家の木内石亭の石譜「雲根誌」は、隣国であるにも関わらず菊花石の記載を逸しています。余りにも根尾谷は街道から遠く離れた僻地であったからです。この根尾谷の菊花石が知られたのは幕末の博物学者 伊藤圭介博士の編纂した「日本産物誌」に菊石として紹介されたのが最初であり、深山幽谷の地が往来を阻んできました。菊花石は松田集落の上手、舟伏山の谷、初鹿谷の広大なエリアから産出しました。
ここの菊花石を地元の人は「松田の菊」または、「初鹿の菊」と呼んでいます。愛好者はこの山の持ち主、故白木孝一氏の名を付けて「白木菊」とも呼んでいます。この初鹿谷の一部は昭和16年、16万3千平方メートルの地域が国の天然記念物に指定されました。更に昭和27年に国の特別天然記念物に追加指定されました。初鹿谷は指定地以外の所にも菊花石層があり、そこから昭和56年頃まで採石されていました。特徴は母岩が大きく石灰質を多く含むため母岩が軟らかく花が出来にくいのです。
舟伏山は平坦な山頂を持った石灰岩の山です。その形から舟伏山と名付けられたのです。これはマグマが膨大な石灰岩を溶かし出したものです。溶かし出された石灰岩は熱の変化によりドロマイト石灰岩になり、山麓にドロマイト鉱床を作り出しています。膨大な石灰岩を溶かし出された山は、熱が冷めると300メートルほど低く沈んでしまったので舟底の山頂になったのです。また、石灰岩の山は珍しい野草と昆虫の宝庫でもあります。
砂防堤のない昭和の始めの頃、谷は深く険しく稀に釣り人が入るぐらいでした。根尾谷水鳥で専門店を営んでいた石川氏は、徴兵検査の前に初鹿谷に入り菊花石を拾い集めて、大八車を引いて険しい山道を運んで帰ったと語っているほど谷に入れば菊花石が幾らでもあったのです。また、この谷は全国各地の石を探している愛好者が初鹿谷の美しさに感嘆します。それは石灰岩の白と輝緑岩の緑で谷が明るく輝いているからなのです。
昭和54年頃に道が整備されてからは、多くの人が探しに入るので石はありませんが、皮目を残した樋の欠けられや花の無い大きな母岩や石灰岩などが谷に転がっています。石灰岩がマグマに溶かされると、魔法の変化をします。マグマの熱で溶かされた石灰岩とマグマの変化は菊花石以外に、さまざまな石を造り出しています。幾度も初鹿谷に入り、そうした石を合わせ見ていると菊花石の自然が次第に見えて来るのです。